1995.1.17 阪神・淡路大震災 午前5時46分。

今朝は早朝4時頃に目が覚めた。関係があるかどうかは解らない。

年に何度か思い出すあの時の感覚、一度文字にしておかなければと思う。

当時医学部の6年生.前年の暮れにかけて卒業試験はすべて終わり、3月(確か)の医師国家試験にむけての勉強だけやっていれば良かった。両親と家族は新開地駅近くの祖父母の建てた家に住んでいた。僕は、医学部により近いこと、長男の特権や大学生であることを理由に、そこから歩いて15分ぐらいのところにある、地元では結構有名な商店街の一角で、祖父が営んでいた洋品店(当時はもう閉めており、一階は父の資材置き場となっていた)の2階に都合の良い一人暮らし(食事選択、風呂は両親の所で済ませていた)をしていた。
前日の日中は、そこで彼女(今の奥さん)と過ごしていたような気がする。午後に小さな地震があって、「珍しい」と話していたのを覚えている。
あの時の感覚は言葉にするのは難しいが、体が完全に覚えている。脳細胞も,神経も皮膚も全部当時とは入れ替わっているはずなのに,体が感覚を正確に再現することができる.あの地震は横揺れではなく縦揺れだった。大男がいるとしたら、自分の家を小さな菓子箱のように持ち上げて、縦に思いきり振った、その中に自分が寝ていたという表現しかできない。朝方、突然大きな縦揺れがあって、目が覚めて、何が何だか解らず布団に潜って小さくなっていたらそのうち、たくさんの医学書が自分のこもっている布団の上にバタバタと落ちてくるのを感じ、それが止まったと思ったら、すぐに外で救急車のサイレンと女の人だか、子どもだかの悲鳴のような、家族を呼ぶような声が聞こえ始めた。布団から出て、散らばった医学書の下にあるはずの枕元の眼鏡を暗やみの中で探し、木造の部屋の様子を見渡して、ひし形になったふすまを見てようやく地震があったのだと理解した。窓から外を眺めると斜め向かいの薬局が倒壊、少し遠目に火の手が上がっているのが見えた。このあたりの正確な順序は覚えていない。
とりあえず家族の安否確認が先だと思い、支度をしてすぐに外へ出た。もともと商店だったので外に出るのはシャッターを開ける必要があったのだが、当然枠がゆがんでいて簡単に上がらないのを体一つ抜けられる分だけ無理やりこじ開けて出た。徒歩で15分ほどの距離、とにかく早く家族の安否、と思い(なぜか電話をかけることは思いつかなかった、体を動かした方が早かったのだろう、当時はまだ携帯電話も、インターネットすらまだ一般的なものではなかった)速足であるいたが、周りは多くの倒壊した家、小さな火の手があちこちに。(いろいろと当時のひどさは写真や話として残っているが、現在報道される紛争地の状況と比べると大したことはない)救急車のサイレンと家族を呼ぶ声はこの時に聞いたのかも知れない。
実家は後に大黒柱がダメージを受けているという理由だけで倒壊していないのに「全壊」の判定を受け、建て直すことになるのだが、玄関の飾りガラスが割れているぐらいで、家族は健在であった。そのときの家族の表情や、交わした言葉も覚えていない。誰も死傷者が出なかったからなのかも知れないが、家族に1人として悲嘆するものはなく、淡々と割れた食器やガラスを外に出して住居の安全確保にいそしんだ。こちらからかけたか、向こうからかは覚えていないが、その内、彼女と電話で繋がって(彼女も西宮なので体験はしているが、建物に損害は出なかった)、お互いの安否確認をした。
それからは、一般的な復興のプロセスである。

ただ、当日か、すごく早い時期に、自分の良く見慣れた風景がどうなったか足を棒にして歩き回って、自分の目で確認し、写真を撮って回った。好奇心ではない。何となくそうせずにはおれなかった。しっかりとその瞬間を「切り取る」作業.
元の生活に戻るまでにどのぐらいかかった、とか、それまでどうやって寝食を過ごしたかはあまり覚えていない。
被災地で復興の生活の中今でも良く思い出すのはここまでに書いた、発生から数時間までのこととあと2つ。

1つは、その後長い間お風呂に入れなくて、いつごろからか神戸の港から、対岸の大阪のミナミにむかって船が出ていたので、(陸路は回復していなかった)1週間から10日に1回、その船で、銭湯までいったこと。なぜかあのとき入ったお風呂のことはよく覚えている.

もう一つは、数日経ってから、はっと「自分は医者の卵だ」ということに気づき何か出来ることがないか、と大学病院へいってはみたものの、異様な程大学病院はいつも通り淡々としていて、医師免許のない自分にはベッドを押すことぐらいしかなく、何となく居心地が悪くなってすぐに戻ってきたこと。「今自分に出来るのは一発で医師国家試験に受かって、早く社会貢献できる能力を身につけること」という理由を無理やりのようにつけて、遊ぶ場所もなくなったことも都合よく、ひたすら受験勉強をした。生死を分ける病状で、医学的な介入が必要な人はその当日数時間以内の対応でなければ救命できない、それ以外の人は事故発生当時に即死か、命には別状のない人が残るだけなので、多くの人手が必要なのはその日、特に数時間である、ということは今思えば、当然のことなのだが、やっぱり、当事者としては、まず自分、そして家族、数日してから回りの人、という順序にしかなりえなかった。

今の自分であれば、自分、家族の安全確保が出来たらすぐに、自転車で自分のクリニックへ向かい、その途中の家々で出来る応急処置をする、という対応になるのではないかと思うが。。
被災したのは自分が生まれ育った場所である.隣のてんぷらやのおばあちゃん、向かいの電気屋の人、隣のおすし屋さん、2件となりの服屋さん、商店街は自分の遊び場であり、数件先の駄菓子屋のおばあちゃんも当然顔見知りである。なぜあの時そういった人たちの顔が一切頭をよぎらなかったのか、実家にむけて歩き出す前に周りの人たち(良く顔を見知った人たち)の安否確認が出来なかったのか。その説明は未だに出来ない.所詮その程度の人付き合いだったのか.きっと今ならできるような気がする.

国家試験合格と共に,僕はその年25年すごした神戸を去りその後今日までは戻っても,数日だけである.

個人的にはその震災で軽音楽部の後輩を一人失い,関係があるかどうか分からないがその1ヶ月以内に自分の名字がつけられた疾患を持つ(Crow‐Fukase症候群)膠原病の深瀬先生が過労だか心筋梗塞で亡くなった.これは震災死となるのだろうか.彼女は芦屋で幼稚園の先生をしていたが,確か生徒のご家族が亡くなったのではなかったかと思う.家屋が倒壊してその中でなくなったのは,統計などは見ていないが圧倒的に,安普請の建物に住む,学生や経済的に虐げられた人達である.ここにも「地獄の沙汰は金次第」のルールがまかり通る.

死んだのは大ざっぱに6000人(これは先述の深瀬先生や,その後ローンが残ったまま住居を亡くして途方に暮れて何週間も経ってから自殺した職のない高齢者などはおそらく含まない).約150万の神戸市(仮に120万人)として,200人に一人が亡くなった勘定である.

自分にはたくさんの医学書が降ってきただけで済んだ.その本が収められていた本棚は大きな物だったが,床の間に入れ込んでいたために,枕元の頭の上にあったにもかかわらず,床の間と部屋を隔てる梁のおかげで,傾いたままそこに引っかかり,自分の体に倒れてくることはなかった.

単に確率論なのか,そこに何らかの「大いなる意志」が働いたのかは分からないが結果として自分は生き延びた.
「単に運が良かった」とするか「自分は生かされた」「未だこの世でやるべきことが終わっていないから」とするかの解釈はそれぞれの脳が,そしてそれぞれの意志が決めることである.

人間は偶然起こったことに対して「何らかの意味を求める」存在である.

そして僕は,そこで何かによって「生かされた」のだと思う.

仮に全てが確率論的に起きるのだとしても,今南房総の地で,現在のスタッフで今の仕事をしていることが奇跡的な確率の中で起きているはずなのだ.あのときxxが起こらなかったら,yyがあったとしたら,変わりにzzという決断をしていたら…

本当に毎日奇跡は起こっているのだと思う.だからその瞬間,そのとき時に体験し,感じたことを「切りとら」なければもったいないと考えるようになり,blogを書くことが苦にならなくなった.

僕にとって,あの日までの自分に戻ることは不可能である.「何か」が変わったのである.

高校,大学と共にした友人にとってもそうだったに違いない.彼の

とにかく、一月というのは新年や誕生日を祝うというよりは、「1.17」が楔のように体に刺さっているようです。

という表現は何となく分かるような気がする.

そして誰にもそんな,人生を変える出来事,瞬間があるはずで,親しい人の間でそういう話をしなくなった最近の人付き合いは少し残念でもある.

もう一つ震災のがれきの中で考えたこと.これは同じく被災した彼女と一緒に深く納得したことなのだが,

「人間死んでしまえば,残された所有物はただのゴミでしかない」

ということ.それから,僕たち夫婦は本当に物にこだわらなくなった.(最近,また物欲が出てきて困っているが)

昨年後半に僕は「人生の価値観」についての棚卸しをやったが,そこで分かったのは,自分が最も大切にしている価値観は「この世に生きていることの喜び」だった.

自分が医師をやるわけはできるだけ多くの人に「この世に生きていることの喜び」を謳歌してもらうためだと何となく気づいた.だから,それを妨げる体や心の病を取り除いたり,軽くしたり,うまくつきあえるようなお手伝いをする.

「この世に生きていることの喜び」をいつ,何をしているときに感じられるかは人によって違うだろう.それは何だって良い.できるだけ多くの人が,長い間それぞれにとっての「この世に生きていることの喜び」が感じられる瞬間を得られるようになればと思う.

そうしたことを何十年も何百年も,続けられていくためには環境のことや戦争に反対したり,それぞれがちょっとずつ「目の前の安易な選択肢」ではない選択をしていかなければならないのだろう.

自分は留学中に例の「9.11」も身近に体験している.
こういった話を書くのは同情や共感が欲しいからではない,生きたくても様々な理由で生きられない人がいる.だからこそ,生きられる間は,その人達の分まで「精一杯生きる」のが我々の役目ではないかと伝えたいから.

「震災から何年」という報道を聞く度に,その数字がそのまま「医師になって何年」である僕にとっては,少しは当時より周りのことが気にかけられるようになっただろうかと,自分の立ち位置を確認する震災の日なのです.

文章を今年は短くすると決めた物の,なかなかうまくいきません.

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